イネの開花時の蒸散

(2019年7月執筆/2022年7月加筆修正) 

 7月に入ると本格的な夏を迎えます.気象庁が2019年5月24日に発表した「向こう3か月の天候の見通し」によると,今(2019)年の7月と8月の気温はほぼ平年並とのことです.これを聞くと,昨(2018)年の夏は東日本で高温(平年よりも1.7℃高温)であったことが思い出されます.7月の気温はとくに高く(平年よりも2.3℃高温),埼玉県熊谷では,日最高気温が35℃以上となった日(猛暑日)が7月の1カ月間だけでも18日を数え,とくに,7月13日から24日まで12日間も続きました.そして,7月23日には41.1℃という日本歴代1位の日最高気温を記録しました.

 さて,35℃以上という温度は,農作物にとってとてもリスクの高い温度です.チャンバーや人工気象室など閉鎖系実験施設でのイネの研究に関するいくつかの結果によると,開花時の温度が35℃以上になると,受粉障害による不稔率が上昇しはじめ,41℃になると不稔率がほぼ100%に達するという研究結果があります(Satake and Yoshida, 1978, Matsui et al., 1997など).この実験結果が野外の水田圃場でも有効だとすると,熊谷でイネの開花期が7月13日から24日に迎えた場合,その多くは高温のため不稔となり,収穫量が減少したのではないかと想像されます.しかし,熊谷のある埼玉県の作況指数は99(作況調査,確報,平成30年度産作況調査(水陸稲,麦類,豆類,かんしょ,飼料作物,工芸農作物)確報,平成30年産作物統計)でした.

 これに関して,熊谷で日最高気温が40.9℃を記録した2007年夏に,農業環境技術研究所(現 農業・食品産業技術総合研究機構農業環境研究部門)によって,イネの高温による影響調査Hasegawa, et al., 2011)が行われています.この調査は,夏に気温が高くなることで知られる関東平野の埼玉県北部から群馬県南部と,濃尾平野の愛知県北部から岐阜県南部の広い範囲で,7月下旬から8月下旬にまでに出穂期を迎えた132水田を対象に実施されました.
 調査の対象となった熊谷岐阜では,この期間,日最高気温が35℃を越えた日が20日もありました.このため,出穂日と開花日のころに日最高気温が35℃となった水田圃場は,調査の対象となった水田圃場の4割以上ありましたが,不稔率が10%を越えた水田圃場は全体の2割程度であり,不稔率は最高でも25%に達しませんでした.この報告から,実際の水田圃場におけるイネの不稔率は,閉鎖系実験施設での研究結果から想像された不稔率よりも低かったことがわかります.これには,イネの開花時刻の気温が日最高気温よりも低かったことが考えられますが,これを考慮しても,低いようです.

 さて,イネ群落では,日中,葉で蒸散が行われています.この蒸散は葉の気孔から大気中に水蒸気を放出する活動ですが,この過程で葉は熱を奪われるので,葉温は低下します.また,これにより,群落内の温度も,イネの群落外および周辺の気温(圃場の気温)よりも低くなります.これを「蒸散による群落内の冷却効果」といいます.群落内にあり,受粉の舞台である穂の温度(穂温)も,また,低くなっており,オーストラリア,ニュー・サウスウエールズ地域の水田圃場では,圃場の気温が34.5℃,湿度が20.7%の時,穂温は気温よりも6.8℃低かったという報告があります(Matsui et al., 2007).また,農業環境変動研究センター(現 農業・食品産業技術総合研究機構農業環境研究部門)で開発された穂温推定モデル(Yoshimoto el al., 2011, Kuwagata et al., 2011)によると,日最高気温が41.1℃を記録した日の熊谷では,開花時間の圃場の気温が37.5℃,湿度は33%だったため,穂温は33.5℃と,4.0℃低い値が推定されています.

 以上のことから,実際の圃場の不稔率が予想されたものよりも低かったのは,気温が35℃以上であっても「蒸散による群落内の冷却効果」によって,受粉が行なわれている穂温が35℃より低くなったことも原因の一つではないかと考えられます.このことは,2007年のイネの高温による影響調査の対象となった水田圃場では,日最高気温と不稔率の相関よりも,このモデルで推定した穂温とイネの不稔率との相関の方が高い傾向にあったということからも説明されまています.
 ただし,この穂温推定モデルによると,開花時間の気温が33.2℃の日でも,湿度が61%であると,「蒸散による群落内の冷却効果」が小さいので,開花時間の穂温は35.9℃と,圃場の気温よりも高くなり,穂温は不稔が発生する温度に達してしまいます.このことは,イネの開花期の高温時では,気温ばかりでなく,湿度を考慮することも必要であることを示しています.

 現在,湿度のデータは,各都道府県に1~3か所ある気象台で測定されており,テレビの気象情報webなどから得ることができます.また,2020年度から,日本国内に約20km間隔で設置されているアメダスでも,順次,湿度の観測を開始するとのことです.これにより,今後,圃場ごとに湿度をより精度よく把握し,的確な対策を講じることで,高温時に発生する不稔よる影響は,軽減されるのではないかと期待されます.