(2023年1月執筆)
(2025年4月修正)
風のない晴れた朝、山に囲まれた盆地の底にある宿で目覚めると、とても冷え込んでいるなと感じることがあります。このような時には、この盆地一帯で「冷気湖(cold air lake)」と呼ばれる現象が発生しています。冷気湖は、晴天夜間に地表面が放射冷却によって冷え、その冷えた空気が、山や尾根で囲まれた盆地や谷間に溜まってできる現象です。冷えた空気は重く、盆地や谷間の斜面に沿って流れ、まるで水のように溜まっていくのです。また、前日に雨が降るなど、湿度が高い時などには、「雲海」となってその姿を現します。
ここでは,長野県菅平盆地に発生した「冷気湖」について、私の観測結果(鳥谷,1985)をもとにお話ししましょう。
この菅平盆地は、長野市の南東約20kmに位置し、北西から南東にのびる約4kmの長軸と、北東から南西にのびる約1.5kmの短軸をもつ小さな楕円状の形状をした盆地です。盆地底の標高はおよそ1,250m、周囲を取り囲む山の尾根は約1,450mと、200mほどの高低差があります。また、東には四阿山(あずまやさん:2,332m)や根子岳(ねこだけ・2,195m)がそびえています(図1)。

図1.長野県北東部 (下図)と菅平(上図)の概要.
この地域では、昭和2年にスキー場が開設され、また,昭和6年には法政大学によってラグビー合宿が始められるなど、スポーツの拠点としても発展してきました。現在でも、スキー場やラグビーグランド、そしてテニスコートなど数多くのスポーツ施設があり、夏にはラグビーの合宿地として全国の強豪チームが、冬にはたくさんのスキー客が訪れます。
この「冷気湖」の観測は、この菅平盆地の南西部にある大松山(おおまつやま)の北東向き斜面で行いました。ここはスキーゲレンデとなっており、盆地底から山頂付近までの斜面に沿って8地点にバイメタル式自記温度計を設置し、気温を連続的に測定しました(図2)。

図2.菅平盆地の概観と大松山北東向き斜面(地理院地図より)にある観測地点の位置と観測地点に設置したバイメタル式自記温度計.
ここでは、観測結果をもとに「アイソプレス」という特殊な図を用いて、気温の時間的・空間的な変化を表しました(図3)。この図では、横軸(横方向)に斜面上の観測地点(標高の高いところから低いところへ)を、縦軸(縦方向)に1982年5月7日18時から8日7時までの時刻をとり、この横軸と縦軸からなる平面に気温の等高線(等温線)を描いています。

図3.1982年5月7日18時から8日7時までの菅平盆地底(P1)から頂上付近(P8)までの大松山北東向き斜面における気温のアイソプレス(鳥谷,1985).
この図を見ると、盆地底にある地点P-1では、夕方には9℃以上あった気温が、夜がふけるにつれて気温が急激に下がり、朝には1℃以下になっていることがわかります。一方、斜面中腹の地点P-6では、気温の変化が小さく、7℃以上でした。
さらに、標高の高い地点が、標高の低い地点あるいは盆地底と比較して気温が高いこと、そして時間の経過とともに標高が高い地点と盆地底との気温の差が大きくなることを示しています。標高が高い地点が低い地点よりも気温が高い現象は「気温の逆転」とよばれているもので、この気温の逆転は時間の経過とともに強くなっています。このように、アイソブレスに描かれた気温の変化から,冷たい空気が盆地底にまるで湖のように徐々に溜まっていく様子が、等温線のくぼみとして現れます。これが「冷気湖」です。
この自然現象は、文学の世界にも登場しています。片岡義男の小説「ときには星の下で眠る」(角川文庫、1980)の冒頭4ページから5ページに、主人公平野和美がバイクに乗って下り坂を滑降している途中、向かい風とともに冷気を感じることで、「冷気湖」の存在に気付くシーンがあります。標高の高いところから低い所へ、冷たい空気が溜まった盆地底の街に向かっていく。アイソプレス図の上で、この感覚は等温線を横切って気温の低い領域に入ることで表されています。
この冷気湖は、晴天の夜間、風が弱く、地表面の放射冷却が強い時に、盆地や谷間でみられる特有の気象現象の1つなのです。私たちの暮らしの中では見過ごされがちな気象現象ですが、そのしくみを知ることで、小説の一場面に自分が登場するような感覚を味わうことができるのです。

写真1.片岡義男(1980)「ときには星の下で眠る」の表紙カバー。