冷気湖のおはなし

(2023年1月執筆)

 「冷気湖(cold air lake)」は,晴天の夜間,風が弱く,地表面の放射冷却が強い時,周囲を山や尾根で囲まれた盆地や谷間に,冷やされた空気が湖のように溜まる現象です.バイクなどで盆地斜面の坂道を滑降する時,向かい風がだんだん冷たくなることによって,その存在に気がつきます(片岡義男1980).しかし,条件がそろった時,例えば,前日に降雨があった時,あるいは湿度が高い時などに,「雲海」となってその姿を現します.雲海は,盆地内の空気に含まれている水蒸気が,気温の低下により凝結して,霧となって現れる現象です.宮崎駿が映画の中で描いた「天空の城ラピュタ」を思わせる竹田城の雲海(兵庫県和田山町),あるいは,枝折峠(しおりとうげ)の滝雲(新潟県魚沼市)などは,「一度は見たい!雲海スポット」として紹介されており,多くの観光客の目を楽しませてくれます.

 さて,ここでは,長野県菅平盆地に発生した冷気湖について,私の観測結果(鳥谷,1985)をもとにお話ししましょう.

 この菅平盆地は,長野市の南東約20kmに位置し,北西から南東にのびる約4kmの長軸と,北東から南西にのびる約1.5kmの短軸をもつ山間部の小さな楕円状の形状をした盆地です.盆地の東側には四阿山(標高2,332m)と根子岳(標高2,195m)があり,盆地周囲の尾根の高さの平均は約1,450m,盆地底との比高は約200mです.昭和2年にスキー場が開設され,また,昭和6年には法政大学によってラグビー合宿が始められたところです.そのため,現在でも,スキー場やラグビーグランド,そしてテニスコートなど数多くのスポーツ施設があり,夏にはラグビーの合宿地として全国の強豪校が訪れます.

 観測はこの菅平盆地の南西斜面にある大松山北東向き斜面にあるスキーゲレンデで行いました.この斜面の盆地底から山頂付近までの8地点に大田式自記温度計(図2)を設置して気温を測定しました(図1).

図1.菅平盆地の概観と大松山北東向き斜面(地理院地図より)

図2.冷気湖観測で用いた大田式自記温度計(株式会社大田計器製作所「気象観測計器」総合カタログVol. 25,P-95).

 では,この観測結果に関してお話することにしましょう.

 ここでは,この観測結果を,アイソプレスという,気温の時間的・空間的変化を1つの平面で示す図法を用いて説明することにします(図3).縦軸(縦方向)に時刻,横軸(横方向)に大松山北東向き斜面のスキーゲレンデの一断面と盆地底にある地点をとり,各時刻・各地点で測定された気温は等値線(等温線)によって示されています.確かに,この図を理解するのはたいへん難しいのですが,冷気湖の特徴をよく表すという特徴をもっています.

図3.1982年5月7日18時から8日7時までの菅平盆地底(P1)から頂上付近(P8)までの大松山北東向き斜面における気温のアイソプレス(鳥谷,1985).

 盆地底1,250mにある地点P-1の気温の時間変化は,この斜面断面図にあるP-1を示す線分の延長上にある縦の破線上で,時間が経過する方向,すなわち下から上の方向に示されます.ここでは,日入時刻を示す横の破線との交点から日出時刻を示す破線との交点まで(夜間),9°Cを示す等温線から1℃を示す等温線のあわせて9本の等温線を横切っています.このことから,地点P-1では日入時刻に9°C以上あった気温が時間とともに徐々に低下し,日出時刻には1°C以下となっていることがわかります.一方,大松山斜面1,410mにある地点P-6の気温は,地点P-6を示す縦の破線上で,日入時刻を示す横の破線との交点からの日出時刻を示す交点まで,9℃と8℃の等温線を横切り,7℃の等温線に接して,7°Cよりも幾分高い値となっています.このことから,この大松山斜面中腹の地点P-6では,日入時刻から日出時刻までの夜間,気温の低下が小さかった(せいぜい約2°C)ことがわかります.

 ある時刻における大松山斜面上の各地点の気温の違い(斜面の気温分布)は横方向の破線上で示されます.片岡義男(1980)の「ときには星の下で眠る」(角川文庫)の冒頭4ページから5ページに描かれている,主人公平野和美が斜面の道をバイクに乗って盆地底にある町に向かって下降している時に向かい風とともに冷気を感じるシーンは,このアイソプレス上で,そう24時を示す横の破線上を左から右へ(標高の高いところから低い所へ),等温線を横切りながら移動している様子を描いたものなのです.

 さらに,斜面上P-5よりも標高が低い地点では,等温線が楕円状の層をなしていますが,これは大松山斜面上の標高の高い地点が,標高の低い地点あるいは盆地底と比較して気温が高いこと,そして時間の経過とともに標高が高い地点と盆地底との気温の差が大きくなることを示しています.標高が高い地点が低い地点よりも気温が高い現象は「気温の逆転」とよばれています.そしてこの「気温の逆転」は,時間の経過とともに強くなっているのです.このように,夜間の盆地底から斜面上における気温の時間変化の様子から,冷たい空気が盆地底や標高の低い地点から湖のように徐々に溜まっていく(冷気湖が形成されていく)ことがわかります.

 この冷気湖は,晴天の夜間,風が弱く,地表面の放射冷却が強い時に,盆地や谷間でみられる特有の気象現象の1つなのです.

写真1.晴天で風が弱かった夜が明けた早朝,大松山北東向き斜面P-6地点から菅平盆地を望む.うっすらとした霧が盆地を覆っていることから,盆地に冷気湖が形成されたことが確認できる(著者撮影).